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今必要とされる宗教家を考える⑥「二乗根性」

知っ得コラム

2024.4.16今必要とされる宗教家を考える⑥「二乗根性」

先日コンビニエンスストアでレジの順番待ちをしていたところ、並んでいることに気づいていながら横入りするおじいちゃんがいらっしゃった。私は、「しょうがないなあ。」と思いながらあきらめていると、店員さんがおじいちゃんに「少々お待ちください。」と言って私を先にレジへ招いてくださった。私は「良かった。」と心で思いおじいちゃんに待ってもらってレジを済ませた。

その時は、当然だと思っていた自分は、経を唱えながら車の中で出来事を振り返り考えていると、なぜ自分は店員さんに招かれたときにおじいちゃんの気持ちになれなかったのだろうかと反省の念で一杯になった。店員さんに先にどうぞと招かれて、おじいちゃんの気持ちになれれば「大丈夫ですよ。お先にどうぞ。」とおじいちゃんに譲れたはずだ。と、当たり前のように先にレジを済ませた自分が恥ずかしくなった。順番待ちのしるしは、コロナの影響で間隔が離れていて高齢者にとっては並んでいるのかいないのか分からない。そこに気づけない私の小さな正義感はまったく浅はかで、おじいちゃんに「ごめんなさい。」と謝りたい心境に陥った。

 

 

佛教では、今生では菩薩の修行の実践こそが魂の成仏できる唯一の修行だと説く。菩薩の修行の根本は「自ら経を唱え、縁ある人へも経を勧める。」ということをキーワードにして、その応用実践が娑婆世界での修行となる。つまり、どうすれば自分の行動言動で目の前の人に喜んでもらえるか、ありがたいと思っていただけるかを考え自ら実践し、そのことを縁ある人に勧めることが修行となるということである。私がとった行動は、自分はいいけれどもおじいちゃんは恥ずかしい思いをしたに違いないし、誰も喜んでいないし、感謝もなく、自分だけがよかったと思う。それでは、菩薩の修行ではなく二乗根性丸出しの心になってしまう。もしも、順番を譲っていたのであれば、おじいちゃんは喜ぶだろうし店員さんもありがたいと思うし、自分もうれしくなったはずである。

 

 

私たちは、このように常に行動言動を試されている。正義はあってないようなもので、常に中道であり選択肢は様々である。時と場合に応じて自分の行動言動選択が変わらなければならない。一瞬一瞬を大切に菩薩の修行が成就できるように精進させていただくことを自分も実践し他の人へもそのことを進めるとき、そこには争いは無くなり思いやりで満たされるのである。自分の行動言動選択が人に迷惑をかけたり、不愉快にさせたり、悲しませたりしていては、一生魂は磨かれず汚れる一方で、抜け出すことすらできなくなり、常にだれかと戦っていなければならない人生に陥るのではないだろうか。

 

 

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