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今必要とされる宗教家を考える④『信じる事』

知っ得コラム

2023.10.31今必要とされる宗教家を考える④『信じる事』

宗教の教えの根本は、信じるということ。疑いなく信じなさい。理屈なく信じなさい。信じる者が救われる。信じる事こそすべての根本である。等々たくさんある。裏を返せば、人間は信じる事がなかなかできない心を持っている。ということで、疑うことはよくできても信じる事ができない。故に、争いや誤解、恨みや嫉妬が生まれる。疑いの癖を持ってしまうと周りの大切な縁ある人すべてを見下してしまい、傷つけてしまい、軽んじてしまい、侮ってしまい、最後には縁ある人すべて離れてしまう。

逆に、信じる事ができる人は、騙されてもしょうがない、彼、彼女のことが好きだからとにかく信じよう。というような心持の人で、人を悪く言わず、人から悪く言われず、縁ある人から大切にされ、縁ある人を大切にし、気づかぬうちに助けられ、気づかぬうちに人を助け、自然に人が近づくし、自然に人に近づいている。宗教が信じる事を大切に教え導くのは、後者のような生活ができるようになってほしいからであって、決して狂信させて自分の信じる神仏以外は信じるなということではない。

人生において、信じて生きることは幸せを手にする宝なのだと説くのである。

 

例えば、人を悪く言う人は、その人を疑った目で見ているにもかかわらず、自分は客観的に人を見る目があると勝手に思い込んでおり、その人を信じていないことに気づいていない。

あの人は、口ではきれいなことを言っているが心の中は分からない。あの人は、みんなすごいというが自分はそうは思わない。どうせ〇〇。どうせ△△。どうせ▢▢。と信じていないが故に自分本位の考え方になっている。聞いているほうも疲れる。

人を悪く言わない人は、あの人は悪い人だと聞いても、いやいや自分はそうは思わない。なぜなら好きだから。いやいやみんなそう言うけれどもすごくいい人なんだよね。と切り返す。あるいは、そっけなく聞き流す。そこには思いやりの心があり、相手本位の考え方になっている。だから、話が悪い方向にはいかないし話していて疲れない。落ち着くし居心地がよろしい。

 

宗教家の中には、狂信させて他宗教に目移りをさせまいと教え導く者もいる。(宗教だけとは言えないかもしれない)そういう宗教は、教えが正しくても排他的になり、他宗教を見下し馬鹿にしたりしてしまう。宗教同士の争いになったり、戦争にもなりかねない。しかし、それは教え導く宗教家によるもので教えそのものが悪いわけではない。すべてを信じよといいながら、自分たちの教え以外は信じるなという。信じる事とは、そのようなちっぽけなものではない。すべてを受け入れる力であり、すべてをまとめる大きな力である。

 

もう一度繰り返す。すべての宗教において共通して導こうとしているものは、信じるということである。信じる事が人間の心の原点であり、幸せになるための手段であり宝である。宗教家はそのことをまず理解して自分本位の導きではなく、すべての民を導くおおきな信でなければならないのではないかと考える。

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