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安徳天皇と糸島 ~永遠のナゾに包まれたその生涯~

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安徳天皇と糸島 ~永遠のナゾに包まれたその生涯~

安徳天皇の伝説や遺跡は全国各地に散在しているが、この話もその一つであろう。

壇の浦で源氏が平家を滅亡させる約一年半前の寿永二年八月、平宗盛が、鬼王丸と仮の名を名乗る安徳幼帝を連れて筑紫郡岩門村の原田種直の館を訪ねた。平重盛の養女を妻に持ち平家とは縁が深い原田種直に幼帝を託す為である。
種直は、幼帝をひとまず太宰府の善正寺に預けた後、自宅近くの那珂川沿いの山奥の地に急造りの御所を建ててここに移した。これが後の安徳村の起こりである。


平家滅亡後、源氏による残党狩りが始まった。種直は、怡土郡高祖神社の宮司・上原兵庫を頼り今宿村上ノ原に幼帝を移し仮宮造営の工事を始めたが、源氏に寝返った豊後(大分県)の緒方三郎惟義が攻めて来るという知らせが入った。種直は工事を中止させ、幼帝を連れ肥後(熊本)山鹿村の兵頭秀道に救援を求めたが、豪族たちが源氏に寝返る中ここも危なくなり、太宰府~箱崎~香椎を経て遠賀郡芦屋の兵頭次秀の館に幼帝を移した。


こんな訳で、今宿村上ノ原の皇居造営跡には濠だけが残された。上ノ原の「安上」や「京ノ原」と言われるのがその場所であった。
やがて源氏の世になると、原田種直は源頼朝の命により、鎌倉の土牢に十三年間入れられ、その後建久八年に刑を終えて帰って来た。
弟の種成は、源氏方だったので、早良郡一帯の土地を与えられ、四郎大夫と名を変えて重富村に暮らしていた。種直は弟の推挙により源氏から怡土の土地を与えられ、五郎丸(今の三雲)に移り住んだ後、伊勢山(高祖山)の麓に屋敷を構えて原田再興の基礎を作った。
この間、鬼王丸こと安徳幼帝は太宰府の鎮西奉行・武藤資朝(もとより)の養子となり、名も武藤惟宗(これむね)と変え、種直が鎌倉から帰って来た頃には判官の地位にあり、北殿(ほくでん)と呼ばれ、九州における兵馬の大権を握っていた。
武藤惟宗こと安徳天皇には七人の男の子があった。そして息子達が成人すると自身が統治していた筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、壱岐、対馬の統治責任者の地位を譲り、太宰府に北殿という隠居所を建て移り住んだ。
その頃安徳天皇は、太宰府の命に背く対馬の地頭阿比留国時の征伐に長男の重尚を向かわせ、阿比留を滅ぼして対馬を平定した。


重尚は対馬を大いに気に入り、平定後も住み続け、この島に父の安徳天皇を迎えることにした。
安徳天皇は対馬に渡る事になり、出発地をその頃対馬の統治に入っていた怡土吉井村の海岸とした。安徳天皇は六十七歳だった。
船は吉井を出港したが、海が急に時化だしたので、串崎の南岸にある漁村に避難して凪ぎを待つ事にした。
その後、無事対馬に渡り、久里田舎(でんじゃ)というところで幸福な余生を送られ、七十四歳で亡くなった。
対馬には安徳天皇に関する様々な伝説が有り、対馬の旧藩主、宗はその子孫であるという説も有る。佐々木信綱博士の和歌に次の一首もある。

久里田舎 宮居となして
塵の世を 住み避けましし
いにしえしのばゆ

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