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恩、忘れがたし ~足利尊氏と糸島地方~

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恩、忘れがたし ~足利尊氏と糸島地方~

真意の程は分からないが、糸島の各所に足利尊氏の書と云われる物がある。


尊氏が逆臣として京都から九州に落ちのび、筑前の芦屋港に着いたのが延元元年(一三三六)二月二十九日。多々良川で菊池勢を破り太宰府に入り、その一ヶ月後の四月三十日には九州の諸豪族を引き連れて博多港を出発。瀬戸内海の海賊達を加え京都を目指し、五月二十六日には湊川の戦いで楠正成軍を撃破。八月十五日には光明天皇を押し立てて征夷大将軍の名乗りを上げている。この時尊氏はなんとまだ三十二才だったと云う。


尊氏が西下していた際の、糸島地方への働き掛けは、残されている書状から推察出来る。


尊氏は太宰府に滞在した一ヶ月程の間、直接には弟の直義や息子の直冬に救援の依頼に当たらせた。まず糸島地方で救援を求めたのは、高祖の豪族原田家、僧兵を多く抱えていた雷山千如寺、志摩の豪族臼杵一家。それに、その地の有力者をシラミつぶしに当たり、援軍や武器・兵糧を集めた。


やがて尊氏は京都に上がり大将軍の職に就いたのだが、特筆すべきは彼のその後の行き届いた配慮ぶりである。
志摩のひらの俊次さん方に感謝状がある。要約すると「さきごろ西国に落ちのびし節の、そのほうの恩今に至るも忘れがたきもの有り。大将軍に任ぜられし自欣(注=自祝の意味)のため、鎧一両、指し進むるところなり」
暦応元年十二月・足利尊氏 平野主鈴公


志摩の瀬知顕信さん方にもある。
「戦功により毛槍一本、感状を添えて送り申し候。向後とも忠節なお同然たるべきものなり」
観応元年五月八日・尊氏(花押) 林七郎左衛門


観応元年といえば、尊氏が足利幕府を開いた暦応元年から十二年を過ぎているが、まだ南北朝時代は終わっておらず、戦争の明け暮れである。そのような中、尊氏は九州地方の豪族や世話になった地方の有力者に至るまで礼状を書き、贈り物を続けていたのである。


なお、瀬知さん方の林宛の書状は、同家に養子に入った林新九郎と云う人が林姓を通し、維新前までは林家であったからという。
尊氏が敗走の地に九州を選んだことについて歴史家はこう言う。「北九州に彼を迎え入れる地盤が有ったかどうかは分からないが、昔から外敵に対する警固の役目を押し付けられていたこの地方の豪族達の体制変革への期待が尊氏に寄せられたのだろう」と。


このように人望のある尊氏ではあったが、やがて弟の直義と南北朝に分かれて戦うことになったのは人の知るところである。人間の栄枯盛衰はやはり夢幻に似ている。

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